Texts and reviews on Yuki Takeuchi
Yuki Takeuchi Solo Exhibition “GESTALT of STARSTUFF” 2025
文 / 久米千裕(徳島県立近代美術館主任学芸員)
武内優記展「星屑のケイショウ」に寄せて
武内優記は、大学で彫刻を学んだことをきっかけに、多様なメディアを横断しながら、ものごとが生まれるプロセスやそれらを構成する物質や素材に焦点を当てた制作を続けている作家だ。本展の背景には、アメリカの天文学者カール・セーガンの「私たちの身体は、星屑でできている」という言葉がある。宇宙の誕生から天体の形成に至る過程で多様な元素が生まれたことを指すこの比喩を、武内は「様々な素材から生まれる作品は星屑の“形象”と言え、人類が発見してきた知の“継承”は人間の切実な営みである」と捉えた。この視座を起点に、彼は彫刻の形成プロセスを宇宙的な生成のダイナミズムと重ね合わせる。
展示室の扉を開けた瞬間、視界はうす暗がりに包まれる。ゆっくりと旋回する巨大な球体と、時折点滅する緑のレーザーの光。その光景は、直前までいた日常の空間とは明らかに異なり、まるで別の場所――宇宙空間へと投げ出されたかのような感覚を呼び起こす。まず目に入るのが、〈手を触れずに練る(シホテアリン隕石)〉だ。天体模型を思わせる球状の装置がゆっくりと旋回し、その中心には本物の隕石が据えられている。そこから数メートル離れた場所にエアダスターが設置されており、鑑賞者はそのエアダスターから小さな粘土の粒を隕石に向けて放つことができる。うまく粘土が隕石に当たれば、それが重なることで少しずつ形を成していく。武内はこれを、「宇宙空間における天体の衝突を『隕石』と『粘土』に置き換え、彫刻を制作する試みである」とした。つまり、ここにおいて隕石は彫刻における芯棒であり、鑑賞者は天体たる粘土を発射して、自らの手で塑像を行うことができるのだ。
粘土を発射するのは作家ではなく鑑賞者である。このとき鑑賞者は、作家のコントロールを離れ、偶然性を委ねられた彫刻制作の代行者となる。しかも、制作を託されているにもかかわらず、勢いよく飛び出した粘土の粒が的に当たったのかどうかは、一見して判然としない。ここには二重のランダム性がある。作家にとっては自ら形をコントロールすることができず、鑑賞者にとっては成否すら見えにくいという、きわめてままならない不確実な状況だ。
作家の手を離れた「偶然性」や「委ねること」へのアプローチは、〈シグナル〉にも通底する。本作は、小惑星センターが提供しているデータをもとに、地球に接近する天体を光のシグナルとして可視化するものだ。通常は緑色の光が時折点滅するのだが、地球に天体が接近すると、その大きさによって光の色が変化するという。私が展示室内にいた間は、天体が地球に接近しなかったため、光は緑色のまま点滅を繰り返すばかりで、その色が変化する瞬間を見ることはできなかった。
このアプローチは〈SETI MISSIONS PATCHES〉と〈Uniform of “Knead without touching by hand”〉にも一貫している。前者はワッペンとステッカーが封入されたカプセルトイであり、鑑賞者自身がマシンを回して購入することができる。タイトルにある「SETI(地球外知的生命体探査)」とは、実在する宇宙プロジェクトの総称であり、武内はこれまでに行われたミッションをシンボル化してデザインに落とし込んでいる。後者は、複数のワッペンが貼り付けられた白いスウェットがハンガーに掛けられた作品である。この作品は〈手を触れずに…〉が展示される度に、武内が自作のワッペンを付け加えていくことで更新されていくという。これまでは本作のためにデザインされたワッペンが付けられていたが、今回の展示では、先述の〈SETI MISSIONS…〉のワッペンが新たに付け加えられた。
〈Uniform of…〉は、ワッペンが増殖し、変化していく作品だ。〈手を触れずに…〉が将来いつ展示されるか予測できない以上、その変容の最終形態は作家自身にも見通せない。また、カプセルトイを用いた〈SETI MISSIONS…〉も、何が当たるのかは運任せであり、作家の恣意が介入しない。作品の解説にも「カプセルトイのシステムも未知との出会いに似ています。購入し開封するまで中身が不明なシステムですので。」とあった。さらに、排出されたワッペンやステッカーをどこに貼り、どのように用いるかという選択もまた、全面的に鑑賞者の手に委ねられている。作家の手を離れた作品の断片は、鑑賞者それぞれの日常のなかに居場所を見出し、そこからまた新たな関係性を結び直していく。事実、私はまったく別の機会に、このカプセルトイから出たステッカーを自らのスマートフォンに貼り付けている人に遭遇した。武内の生み出したアイコンが、作家の予期せぬ形で他者の日常に溶け込み、機能していたのだ。
美術館に並ぶものは、もちろん例外はあるにせよ、基本的には「完成された作品」である。そこでは、「モノ」としての作品を規定する決断の特権は、常に作家の手の中にある。しかし、本展に散りばめられた不確かさと偶然性は、そうした作家が主導権を握る通常の制作のあり方を解体するものだ。随所に埋め込まれた偶発性によって、私たちは作品の完成形を鑑賞するのではなく、まさに表現が生まれる場そのものに立ち会うことになる。そして、そのあらかじめコントロールできない不確実性こそが、いつ訪れるとも知れない天体の衝突や、宇宙のコントロール不可能な現実と重なる。
ひるがえってこのことは、人智の及びきらない、いまだ理解を超えた宇宙の摂理への憧憬や、無限の未知に対して私たちが抱く、尽きせぬロマンを感じさせる。一見無謀とも思われる宇宙プロジェクトが発案・実行され続けるのも、まさにこの人間の尽きることのないロマンがあればこそである。「ものを作ること」に焦点を当てる武内の作品もまた、そうした人類の切実な営みと深く重なり合っている。
こうしたランダム性や他者の介入が重要な役割を果たしてきた展示において、その最後を締めくくる作品は異なっていた。黒幕をめくって次の部屋に移ると、それまでの暗室から一転して、穏やかな自然光が差し込む空間へと入る。そこには、元素をモチーフにした〈100元〉が展示台の上に並んでいる。現在、国際的に認められている元素は118種類に及ぶ。本作はその一つひとつからイメージされた形を象った、118点組の作品である。さまざまな形の缶の側面には小さな突起が付き、蓋の上には有機的な形態が生えているかのように付けられている。複数の棒が刺さったものやサボテンのような形状のものなど、色彩も含めて多様な姿が並ぶ。
日常のありとあらゆるものから私たちの人体にいたるまで、この世界に存在するすべては原子でできている。そして、原子の「種類」のことを元素という。したがって、元素とは実体ではなく概念である。本作は、このことと、多様なものを組み合わせて新たな形を生み出す近代彫刻の手法「構成彫刻」を重ね合わせた作品だ。武内は「目に見えないものや、一般的には捉えにくいものを『かたち』として可視化する美術にとって、元素は格好のモチーフだといえる。」という。原子の結びつきによって物質が形づくられるように、彫刻もまた素材を構成することで立ち上がる。つまり、物質を形づくるミクロな秩序と、作家が手によって彫刻を組み上げる行為は、ここにおいて入れ子状の図式をなしている。
ランダム性に委ねられた作品ののちに現れる、作家の手によって作られた造形。展示室の雰囲気がガラリと変わったことや、それらが整然と並べられていることも手伝って、前室の作品と対比を成して迫ってくる。この二つの部屋を行き来することは、どこまでも広がる壮大なマクロの宇宙と、小さく目に見えないミクロの領域を往還する作家の思考の軌跡そのものだ。生成のダイナミズムを、この二つの部屋の鮮やかな対比によって、私たちは体感することになる。
Yuki Takeuchi Solo Exhibition “SETI” 2021
文 / 真住貴子 (国立新美術館)
ボイジャーに想いを寄せて
コミュニケーションと表現の未来
そのギャラリーは、かなりレトロなビルの中、さらに入り組んだ奥にあった。ギャラリーの入口に立つと、理系の実験室のような光景が目に入ってくる。OHPプロジェクターの上に縦長のアクリルケースが乗せられ、半分ほど入れられた透明な液体と、その中に小さなスピーカーが沈められている。そのスピーカーが奏でている音の振動がわずかな液体の流れを生み出し、その流れがプロジェクターによって壁に投影されている《Decoder》。人を感知して、小銭の入った紙コップを、まるで何かをねだるようにせわしなく振りだす三本足のロボット《L-abor》。バッハのブランデンブルク協奏曲の楽譜と、それに対になるような画像がそれぞれ同じサイズに額装されて壁に掛けられ、作品の前に立つとかすかにその音楽が聞こえる《Bach Brandenburg Concerto No.2 in F. First Movement》。カフカの短編小説『父の気がかり』に登場する不思議な生命体“オドラデク”を表現した小ぶりの有機的な形態の樹脂のオブジェ《Odradek》、中二階にはホームシアターのような空間に黒電話の受話器を使いながら流れるキアヌ・リーブスの映像を鑑賞する作品《METI》がある。会場内は、時折3本足のロボットがガシャガシャとせわしなく動き、紙コップの小銭を鳴らす音が、静かに鳴り続ける微細な機械音の静寂を破る。その様子は、あたかも地球から人類が消滅した世界に、残された機械類だけが動いていて、人がいつ来てもいいように何千年、何万年もスタンバイしている、そんな奇妙な錯覚を起こすような場所に迷い込んだ感じがした。実際にはその場に作家も、鑑賞している人もいるにもかかわらず、人の存在の希薄さがこの空間を支配している。
人の不在感の正体は、展覧会のタイトル《SETI》からおこっているものだろう。SETI(Search for extraterrestrial Intelligence)とは地球外知的生命体探査のプロジェクトの総称で、中でも1977年に宇宙へ飛び立ったボイジャーが有名だろう。地球に私たち人類がいることを知らせる情報、ゴールデン・レコードを搭載し、今もボイジャーは宇宙を漂っている。この無人探査機には人類の夢が詰まっていながら、そこに誰も乗っていない。いわばこのギャラリーはボイジャーの中なのだ。
武内は、ボイジャーに必要な情報を搭載しても、地球外の知的生命体に我々の意図が伝わるのか?という疑問から、そもそもゴールデンレコードには大事なピースが欠けていると指摘する。その情報を作り出す私たちの意識そのものが何なのか、相手と共有可能なものなのかという点だ。そして、そのブレイク・スルーに芸術表現の可能性を見いだす。相手を想像して伝えようとする意識の努力=創造性と捉えて、武内の作品を見るときに、その思考に通奏低音のように流れているのが、複雑な意識の交換、コミュニケーションの問題だ。「コロナ禍において、どうにかコミュニケーションを取ろうとする社会の姿とボイジャーが重なった」と制作の動機を武内は語る。コミュニケーションは、得てして意識や言語を同じく共有するものの間でもしばしば機能不全を起こすものだが、武内は伝えたい情報をエンコード(変換)し、適切なデコード(復元)をすれば、地球外の知的生命体に届くのか模索するように、5つの作品を発表している。形のない意識に形を与え、相手に伝える。それは表現として文字、音、画像、彫刻にエンコードされ、相手の意識の中でデコードされるが、ここで思いもよらない変質を起こしていることが、いずれの作品からも見て取れる。武内は相手を想像して伝えようとする行為と表現においての創造性との重なりという点に希望を見いだしながらも、どの作品も、どこか、コミュニケーションがすれ違う現実を示している。思い通りには決して届かないということを証明するかのようだ。同時にこれらの作品によって武内は自身の出自である彫刻というジャンルのアップデートにも挑戦している。もともと彫刻表現の可能性を広げることに関心を持つ武内だが、その関心はこれまで意識外の何かの関わりによって成形されるものへ寄せられていた。川原にある自然と丸くなった石から宇宙の星の誕生まで、意識を介入させずにできる形への強い欲求があり、その態度はあたかも宇宙そのものを彫刻で解読しようとしているかのようである。それもまた、この世界のエンコードとデコードだが、今はさらに深く、意識そのものの形を見出そうとしている。
NASAによると、43年前、最初に地球を飛び立ったボイジャー1号は、1990年に太陽系全体の“家族写真”を送ってきたのを最後に、遠く太陽系をはなれ、現在は、光の速さでも21時間以上かかる恒星空間を航行している。いつかボイジャーが知的生命体に出会う時、地球の人類は創造的なコミュニケーションを獲得しているだろうか。武内の作品は、そんな表現への挑戦と未来を予感させた。
